kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

備忘録 兄 ③

 2019年12月9日に3回忌が終わりました。


毎回のことですが、お坊さんも大阪から福井まで行ってくれています。


宗派の問題で、いつもながら頭が下がる思いです。


 お坊さんといつも話すことは、通夜の日からの豪雪のこと。
通夜の最中から本降りになり、葬儀が終わるころには一面の銀世界。
高速道路は不通になり、49日前には8号線が不通。
大阪のテレビで中継をしているのを見ていたら、兄の家のすぐ近く(笑
毎年の癖で、スタッドレスタイヤにしていたのですが高速道路は40kmでも怖かった。
 でも、お坊さんは大阪から来てくれる(笑
本当に雪がよく降りました。



 今回は、兄の性格について書いていきます。


 性格は内向的。
外では本当に話すことがほとんどなく、学校での友人は少ない。
ステージが上がるたびに1人は友人ができる(不思議だ)。
広く浅くではなく、狭く深くなのでステージが上がっても付き合いが続いている。


 家の中では典型的な内弁慶。
特に、親父がなくなった後からは誰も止める人間がいなくなったので顕著になる。
私が高校に入った時期に、兄弟喧嘩で勝ってしまい余計こじれる。
母親に懇願されて?兄弟喧嘩は負けるようにしていましたが、それがわかっていたようで急所狙いに変更される。
無意味に技巧派になっていた印象を受けていた。
外でそれをしていてくれていたら・・・・私の苦労も半減しただろうに。


 私があまりにもむかついたので、中学3年生の時から2年間ほど顔を合わせても一切口をきかず。
ここで面白かったのが、家の中での食事はみんなで食卓を囲んでいたのですが、2年間は毎食顔を合わせていました。
お互いに、食卓に顔を出さなかったら負けだと考えていたのかも。
大学生になってから、よく福井で飲んでいた時の笑い話になっていました。


 我が家の兄弟喧嘩は本当に激しくて、殴り合いは軽い方、最後は金属バットまで出てきてカオスと化していました。
救急車に乗ったのは、兄弟げんか?ではなく、私がトイレに入っているときにノックを失敗(兄談)してガラスを割り私の左目の横に5cmほど刺さった時(私小6)くらいです。


 兄のほめられた?ところは、母親には手を出さなかったところです。
母親と口論になってあまりにも腹が立ったら私に喧嘩を売りに来ていましたからね。
私がいないときは、冷蔵庫を殴っていたようです。
そこら辺の理性がまだ働いていたのは称賛に値する?かも。
 母親とは性格が似ているからか、常に衝突していました。
福井から帰ってきてご飯を食べているときも、5分後には口論。
後で母親に聞いたのですが、私が大学から帰ってくることを見計らって口論を始めていたようです。
このころになると、私が「うるさいからやめろ!」と言ったら静かになっていました。



 そういえば、兄っていつ勉強していたのだろうか。
中学以降は基本的に勉強をしている姿を見たことがありません。
1回本を読むと内容を正確に覚えていたのは知っていますが・・・・・。
毎週末、家に遊びに来ていた兄友達もいつ勉強していたんだろう?
 真面目は真面目でした。
とことんまで一つのことを追求しますし、自分がやると決めたことは時間がかかってもやり遂げていました。


 高校生まで、エロ本は読まず、女性(の裸)に興味を持たず・・・・・母と男色ではないかと心配していました。
私の持っていた小説にエロな内容があったら、「なんて本を読ませる!」(自分が貸してくれといったのに)といって、兄弟げんかへ・・・・。
本当に女っ気がなく、大学3回生の時に初めての彼女ができたときは、避妊具をプレゼントしたくらいです(ちゃっかり使っていた)
実家に帰ってきたときは、私のベットを使っていたみたいで・・・・ゴミ箱に・・・・片づけるの誰だと思っている!
私も、暇に飽かして福井に行っていたので、その彼女とは食事に行ったりもしました。
兄は、彼女ができたりすると必ず紹介をしてくれて感想を聞いてきました。


 思い出したから書いておきますが、かなり衝撃的なことかもしれません。


 兄は、結婚というものをしたいとは思っていませんでした。
けれど、自分の子供は欲しい・・・・・学生のころから、結構その話をしていました。
はじめは本心ではないと思っていましたが、🈠彼女ができて愚痴る回数が減り・・・・別れてからは元に戻りました。
その時の彼女となぜ別れたのか‥‥兄が亡くなってから会う機会があって、聞いてみると、四国にある大学院への進学が決まったからだそう。
 結婚前後には、子供だけ生んでもらって子供だけを引き取るにはどうしたらいいのか・・・・・・をいっぱい相談されてました。
最後の連れ合いと結婚するのを私は止めたのですが・・・・・兄の頭の中の計画と合致させると・・・・・・計画を完遂させる気でいたのでしょう。
子供を産む段階になり育児実績のために病院と家とを併設して、母親(育児・勉強要員)の住む家を用意したり。
福井の病院を閉め、大阪で開院させる計画を私にさせていたくらいですから・・・・本気だったのでしょう。
自分の病気でおじゃんになりましたが、計画の一部・・・・自分のDNAを残すことには成功しています。
 私たち兄弟の中からは出ない・・・・・亡兄の家族には言えないことだけれど、甥が独り立ちしたときにこのブログのことを伝えることにしているので、後は甥が判断してほしい。
私の妻は、この話を知っています。
リアルで、学生の時から聞いていたのと、もしも子供ができなかったら「養子」にくれといわれていたから(笑
断ったけれどね。


 兄って、医学部を志望したのだけれど・・・・・本人は浪人覚悟だったのですが、母親が浪人はするなと行っていたので、後期は大阪府立大学工学部宇宙工学科にしていました。
本人曰く、家を出ていかなくてよく、一番入りにくいところだから良い!
前期は京大医学部でした。
この当時、腎臓が弱くて出席日数が落第ギリギリだったので入試に影響したようです。
出願後の試験を受けることができる条件が、(現役で)健康診断書の提出でしたから。
のちに、兄は悔しがっていましたが、医師になってからは「あれは当然の処置だ」と言っていました。
府立大に入り、後期になる前に退学届けを出して母親に一言「浪人はしていない」。
母親が1週間寝込んでいました(笑



 なんだか思い返してみて、妻にも聞いてみると私が当たり前の兄弟喧嘩だと思っていたのはかなりひどいものなのだとわかりました。
兄とは本当に殴り合っていたし、お互いが負けないように体を鍛えるようにしていました。
 小さいころから、私は兄のストックというか予備というか外付けHDDというか・・・・・そんな感じでした。
親に依怙贔屓されていることはなかったのですが、役割はいつもそんな感じです。
兄の足りないところは弟が補うけれど、弟の足りないところは兄は補わない。
 文章にするとひどいな(笑
自分ができることは弟もできると思ってから、大学受験の時はきつかった・・・・兄はセンター試験の5教科7科目で9割9分・・・・
文系だったから3教科でいいのに・・・・5教科7科目やらされて7割3分・・・・・ええ、兄が鬼になりましたよ(笑
強制的にフルにやらされて後ろで竹刀(本当は木刀)を持ち、手が止まるとたたかれましたよ。
そのおかげで?8か月後のセンター試験は9割3分(笑
断っておきますが、理数系はセンター試験レベルまでしかわかりません!
まぁ、ご褒美は2次試験は面接のみのところを本命にしましたけれどね。
ところが!兄が勝手に前期の出願校を決めていたので受験させられました。
受かると自分の人生が曲げられるので、国語だけ白紙で提出(笑
帰ってからばれるとやばいので、解くのはちゃんと解きました。
書いていたら受かっていた・・・・・(確認済み)
ちゃんと、無事に志望校に入ることができました(笑
いや~、8か月あれば、数Ⅰ・数Ⅱが満点を、理科もそれなりに点数を取ることはできるものですね。
くどく書きますが、私は文系でした

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