kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

年末からあった事

 ブログの存在を覚えていましたが、年末・年始は衝撃的なことが多くてブログの更新まで手が回りませんでした。


 私の父方は、8人兄弟で親父がその末っ子。
昭和11年(1936年)生まれで、上には2男5女(女・女・男・女・男・女・女)います。
祖父が生きている間は、実家に盆正月のたびに集まっていましたが、祖父が鬼籍に入った後は、男兄弟と実家に住んでいた2女の伯母が集まっていました。


 2女の伯母は、大正13年7月7日生まれ。
昭和19年に結婚し、旦那は3か月後に出征し戦死。
子だからには恵まれず、その後、再婚はしませんでした。
 親父の母、私から見て祖母は、親父が14歳の頃に病没しており、それ以降は二女伯母が母親代わりだった・・・・・らしい。
大学の卒業時と、結婚時に養子縁組の話が出るほど・・・・・で、父親はそれを頑なに断っていたと、伯母と母親からは聞かされていました。


 私や亡兄からすると、父方の祖母代わりをしてくれた人です。
家庭内の行事・・・・・子供の誕生日・クリスマス・運動会、家族旅行などには必ずと言っていいほど来てくれたり同行していたりしました。
 
 住んでいたのは、大阪市浪速区玉出中付近。
元々の実家がここで、商店が浪速区元町1丁目にあり、祖父からの相続の際には、長男が商店地、次男が実家・・・・という取り決めになりましたが、次男の実家だけは付随事項があり、二女が望む限り2階に住む事が出来るようにする事。
今から10年くらい前までは、実家の2階に住んでいました。
 
 職業は、和裁の先生。
若いころから和裁教室を開き、花嫁修業をする人や和裁で生計を立てようとする人達を生徒に取っていたようです。
住み込みの人もいたようですが、私が物心ついた時からは住み込みの人は見ておらず、通いの生徒さんが数人いました。


 10年前より、堺市の有料老人ホーム・スーパーコート堺神石に転居。
2年程前に大腸がんを患ったが、年齢を考慮した結果、手術はせずにそのままと言う事に。
12月23日、永眠。


 私は、亡兄の7回忌の報告があったので11月末に顔を出し、年末に家族そろって顔を出す約束をしていました。
12月に入ってから食欲が細くなり、中旬からは水だけしか口にしなかったようです。


 私や亡兄が伯母を呼ぶときは「玉出のおばちゃん・玉出の伯母」。
洋裁学校(教室)の先生の時は「尾羽根 徳子」で通していたそうです。
本名は「尾羽根 美知子」です。
成人してからも、「玉出のおばちゃん・玉出の伯母」と言っていたので、本名を思い出すのに時間がかかった(笑
老人ホームでの面会カードに名前を書くとき、戸惑った覚えがあります。



 25日に通夜、26日に葬儀を行いました。


喪主は長女伯母の長男(一応私の従兄)がなり、通夜や葬儀の段取りは玉出の伯母が老人ホームに入所後、世話をしていた5女夫婦が取り仕切っていました。


 母親と話して、通夜後の付き添いを希望させてもらい、母親と私たち家族3人が葬儀までの付き添いと線香・蝋燭番をすることになりました。
妻?薬局の運営上、いきなり人がいなくなる事が出来ないので、通夜のみの参列で葬儀は欠席・・・・・・通夜振る舞いが終わってから自宅(会場から車で30分)まで送りました。
 葬儀が終わってから母親がぶっ倒れ・・・・・回復に2週間ほどかかりました(笑



 1月28日、変則的ではありますが、満中陰法要を行いました。


会場は通夜・葬儀と同じ場所。
話はそれますが、太郎君の服装は、卒業式用のスーツを購入していたので・・・・・私の予備ネクタイを貸し出して着せてみました。
馬子にも衣裳?
一応、170cm用のスーツと、別に購入したベストを着用しています。


夫婦位牌を作り、子供がいないので家が断絶する事を考慮して、本人の希望で永代供養用の位牌も作成。
 つつがなく進行し、昼食後に遺言状の朗読(公正証書遺言。長女の長男・・・弁護士)。
遺言は、公正証書にすると家庭裁判所の検認作業が要らないのでお勧めです。
玉出の伯母は、弁護士(長女の長男)の立ち合いで作成後、法務局の公証人に老人ホームまで出向いてもらっています。
簡単には、相続財産に関しは、遺言執行人の費用、生前の経費等、死後にかかる経費等を差し引き、残りは伯母の兄弟姉妹の7人(家)で定額を分け、さらに残ったものは世話をしてくれた伯母が半分、伯母の配偶者が半分となっていました。
誰も反論する人はおらずに承認。
ちなみに、本来であれば私の家は父親が相続人たる資格を持っていましたが、死亡しているのでその子が代襲相続します・・・・・が、遺言では氏名が指定されていて、母親が相続人になりました(笑
これに不服はありません。
 そして形見分け。
後で母親に聞いたところ、貴金属でも高価な部類は既に配布済みとのことで、母親も受け取っており、さらには、妻の分としても預かっているらしい。
ちなみに、電話では遺言書の事、形見分けの事を報告しました。


 小さなことかもしれませんが、社会人になってから、伯母の毎年の誕生日には会いに行ってプレゼントを渡していました。
その中でも思い出の物は、伯母が200mlほどの缶ビールを飲むと聞いて、鹿児島に行った際に薩摩切子のビールグラスを送ったことがあります。
老人ホームに行った際には見かけなかったので、どうしたんだろ?
欲?を言えば、形見分けではそれを入手したかった・・・・・・・。
詳細は不明です。



 昨年は親戚系の葬儀が頻繁にありました。
母方も姻族もそして父方も・・・・・・。
自分に近い人がいなくなることに恐怖を覚えるのは久しぶりの感覚です。

×

非ログインユーザーとして返信する