kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

備忘録 兄②(中学・高校編)

 たまに書く兄の事。



 中学時代


 地元の中学校に入り、吹奏楽部に入部する。
担当楽器はチューバ。
自分より大きな楽器を抱えている姿(確か中1のときの身長は150cm)は保護者の間では結構有名。
なぜ有名だったのかというと、吹奏学部は学校行事の時には必ず演奏していました。
演奏と演奏の間の待っている間、チューバを横にして太ももの上で抱きかかえながら眠っている姿がよく目撃されていたからです。
他の保護者から必ず突っ込まれていたと母親がぼやいていました。
 吹奏学部は、日曜日が完全に休み、月~土曜までが18時まで。
合奏は土曜日の15~18時と基本的には完全に決まっていた。
例外としたら、夏のコンクール前と夏のコンサート前の1週間は日曜も関係なく、しかも19時までやっていました。
ただ、楽器(部より貸与されている)を持って帰るのは自由で、よく日曜の朝6時頃から府立の大きな公園の小さな山の上からロングトーンをやっていた。
当時、その公園の校区の中学校にクレームが入っていたらしい・・・・・当時の関係者各位には申し訳ない。


 クラブでは、10名余りの友達を得る。
中でも、F島さん・S本さんは自分が好きだったテーブルトークRPGの仲間としてよく我が家に入り浸っていた。
この仲間の部外の人だが、M坂さんという人もよく入り浸っていたな。
M井さんは、病気になってから最後の抗がん剤治療の遺伝子治療のときにかなりお世話になった。
吹奏楽部では、チューバを担当していた。


 いつ勉強しているかわからない人であったが、中1の終わりの頃に東京標準テストの頃の恩師が脱サラして開塾するというので行っていた。
元東京標準テストの人たちが1期生となっていたので、塾の合格実績はものすごい事になっていた。
が、なぜか全員Mヶ丘高校に入学している。
高校受験に差し掛かると、親父が食道がんで入院(1月~5月)していた。
どうやら、入院直後に両親と話し合って、公立だと「Mヶ丘高校」、私立だと「東大寺学園」「星光学院」を受験することとなる。
父親との約束で、公立に行くのなら「弁護士」に、私立に行くのなら「医師」になるようにいわれる。
結果的に、全ての学校に合格するも兄は公立に行くこととなる。
だが、弁護士にはなっていない・・・・・・父親との病床での約束を守らないなんて・・・・さすが兄である。
自分で決めたら、とことんまでその考えに沿って行動する人だったからな~。


 中学時代のあだ名は「じゃがいも」。
思春期に入ると「にきび」に悩まされるようになり、多分、そのにきびと体型があいまってのあだ名だと推察する。
 ちなみに、中2の2学期より女子に虐められる。
私が強引に吹奏楽部に入らされたときに、ヤンキーの先輩から教えてもらう。
色々やり、1ヵ月後には沈静化。
その事で、兄にはものすごく怒られ兄弟げんかに発展するも・・・・案の定私が負ける。
兄弟げんかをしても、生涯私が勝つという事はなかった。
というか、普通は感謝されても良いのではないのだろうか・・・・解せない。


 中2の頃に、親父の自転車で鹿児島県旧加世田市まで自転車で行く。
自分の自転車は、購入4日目で盗難に合い、それ以降親父の自転車を愛用。
自宅~鹿児島県までを陸ではなく、南港からカーフェリーが鹿児島市まででていて、それに乗り、鹿児島市から県道19号線で川辺峠などの峠を越えながら旧川辺町を通っていく。
旧川辺町を経由したのは、親父を入れる仏壇を持ってきてくれた母方の親戚がいるのでよった。
兄曰く、風呂に入れさせてくれてお寿司までご馳走になり、とどめはお小遣いまでもらったそうだ。
そこから旧加世田市の祖父母の家まで行き終了。
2週間ほど滞在していたが、その間、自転車で指宿温泉、池田湖などの薩摩半島の名所を色々とめぐっていたり、農家の祖父母を手伝い稲刈りをしていた。
私はその頃、塾の合宿がありあまり覚えていない。


 高校時代


 高校は「Mヶ丘高校」に入学。
やはり入ったクラブは吹奏楽部。
中学のときの吹奏楽部部員の男子の半数がこの高校でした。
また、塾での友人も高校で合流したようです。
高校生になってもテーブルトークRPGをこよなく愛し、高校でもその熱は衰えることなく、新しい友人を獲得しながらよりディープなところまで行き着く。
俗に言う「OTAKU」。
この頃から、家に入り浸る人数が8人前後になり、母親はその食事の用意をするようになり、私まで回ってくるご飯がなくなる。
ただ、よく私の勉強を家庭教師のように教えてくれるのでそれほど不満があったわけではない。
から揚げを1回に10kgとか、グラタンを20皿以上作るとか、どこの厨房なのでしょうかというくらいでした。
 高校2年生の頃から、腎臓の動きが悪くなり体調がものすごく悪い日が続く。
朝起きれないとかそんなレベルだが、母親が心配して送り迎えをするようになるが、出席日数が足りなくなる寸前までになる。
遅刻3回で・・・・・・などという謎ルールあった。
この事が、自分の将来にとって大きな壁になるとは思っていなかった(兄談)。
 大学受験、兄の志望校は京都大学医学部。
両方とも落ちて浪人・・・・・・。
兄の事をかばうわけではないが、河合塾・駿台などの大手予備校のテストでは必ず[A判定」でした。
で、自宅浪人。
さすがに浪人になってからはそれまでの遊びを一切やらず、1日18時間ほど受験勉強に没頭(兄談)。
が、翌年の受験も失敗・・・・・・しなかった。
母親が二浪はさせないというので、府立大学宇宙工学科というところに入学。
大学が家から一駅なのに一人暮らし(フラワー荘)。
トイレ風呂共同だったので、実家に花を摘みに来たりお風呂に入りに来たりする
何のための一人暮らしか・・・・・。
そして大学の授業に1回も出ることなく1月で中退(仮面浪人だった)。
何を思ったのか、福井医科大学を受験する。
ここで判明したのだが、その当時は体があまりにも弱いとはねられる傾向があった。
兄の場合は腎臓病由来による出席率の低さが問題になり、現役のときから健康診断の結果を添付させられていた。
これについて、後年、兄は「職業的には仕方の無いこと。もし、体力が無くて手術の最中に問題が起こったら迷惑をするのは、自分を信頼してくれて体を預けてくれた患者さん」だと。
「その可能性を未然に精査して、少しでも効率を上げようとするのは当たり前。それに気がつかずに2年を棒に振ったのは自分の責任」と申しておりました。
結果は見事合格で、自分の最終的な道を開拓できました。
他に受けだ学校は、防衛医科大学校(3年間・合格)・慶応大学医学部(3年間・合格)だったはず。


 高校までの間、特に小・中学では「開校以来の~」といわれていたので、俗に言われる兄弟での比較というものはされませんでした。
初めは兄と同じ位に期待されましたが、私は親父が亡くなった時から一切勉強をしなくなったので・・・・・・。
これが、普通に勉強ができる兄だったら比較されて先生方に嫌味を言われていたのでしょう。
兄に感謝?(笑
 そういえば、高校生になってから兄弟げんかに金属バット・木刀が登場したり、柔道の技が入ったりして周りの被害が大きくなっていました。
でも、兄弟げんかで深刻な怪我をしたのは、トイレのガラスを兄がぶち破り、私の顔面(左目の横)に刺さったときだけです。
このときは、まぶたを貫通して白目をかするように刺さったので目が見えなくなる恐怖を覚えました。
それ以外は、打撲くらいですか(笑
兄は内弁慶だったので、外でのストレスをうちで発散するという・・・・主に私に喧嘩を売ってくる。
結果は、兄が疲れて終了。
ほぼ毎日やってましたね~(爆
 お互いが大学生になってからの酒の席でよく笑い話でこの事が出ていました。


 兄の高校3年次の身長「159.6cm」でした。
本人は160cmと言っていましたが、高校のときの記録が机から出てきて知りました。
私が171cmなのと、顔が全然似ていないので外では兄弟に見られる事がありませんでした。

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