kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

祖父母の戦争体験

 私の祖父母は、現在の南さつま市加世田という所で生まれ育ちました。
生まれた年は大正3年・・・・・1914年生まれ。


一人目の子は長男で、昭和10年頃に生まれ、20年に死亡。
二人目の子は長女で、昭和13年頃に生まれ、18年に死亡。
共に病死でした。


次男は昭和19年に生まれ、次女(母親)は昭和21年に生まれています。
次男・次女以降は全員成人して結婚しています。
男一人、女三人です。



年金の記録で確認しましたが、終戦までの10数年間、祖父は兵庫県神戸市にある軍需工場に勤めていました。
何故務めていたのかは不明。


やっていた仕事は設計だったらしい。
ゼロ戦全体の設計ではなく、機銃の発射スピードとプロペラの回転数との兼ね合いだという事。
これは、妻と結婚する前に痴ほう症になった祖父を訪ねたときに、祖父が妻に対して口説いていた時の話の内容を聞いていて判明したことです。
祖父は標準語を話すことができたはずですが、ボケたからか、生粋の鹿児島弁で話していたので妻は何を言っているのかが分からなかったらしい。
愛想よく相槌を打っていたら機嫌よく話していました。



そのころ、祖母は一人で﨑山家を守っていたらしい。
祖父は本家の長男で・・・・・・・って、当時の閉鎖された村というのはドロドロしたものが渦巻いていた・・・・・・。
という話はおいておいて、農家の家業を切り盛りしていたらしい。


太平洋戦争末期、そんな祖父母の家の近くの吹上浜に陸軍の万世飛行場が建設された。
現在、飛行場は吹上浜海浜公園となっています。
海浜公園を東に行くと県道20号があり、そのT字路に旧万世陸軍航空基地営門後があります。
その間に、平成5年(1993年)に開館した万世特攻平和祈念館があります。


私が小学生の頃、大阪から鹿児島市まではサンフラワー、鹿児島市~加世田市(当時)までバスで行き、加世田市~万世までもバス。
降りる所は慰霊塔下というバス停でした。
目の前に、万世ストアーという超ローカルなスーパーがあります。


祖母の話に戻り、祖母は﨑山家の本家であったために、特攻隊員や基地の軍人たちを家でもてなしていたそうです。
小学生の頃、トイレに行きたくて起きたら、居間の方からは笑い声、居間から外に繋がっている廊下からは数人の足音が聞こえてきたのですが、寝ぼけていた私はそのまま玄関前にあるトイレの前の障子をあけて出てしまい・・・・・・。
翌日の朝食時にその話をしたら、祖母が終戦まで、この家で特攻隊の人たちの歓待をしていたとの話をしてくれました。


納屋の上が蔵のようになっていたのですが、そこには軍人さんたちが置いて行ったものが十数点保管されていました。
中には手紙が入っていたのですが、小学生の私にはどうすることもできず・・・・・・大学生になったときに友達と遊びに行ったときに、祖父母の了解の元、大学に持ち帰り、解読してもらってから、遺族に渡すことができました。


私の小学生時代は昭和の末期。
吹上浜海浜公園の近くに「ゆうらく」という温泉施設ができ、近隣住民は無料券が配られて入りに行っていました。
そこに来ていた老人たちが・・・・・南方帰りの人が居たり、満州帰りの人が居たり。
私たち兄弟が大阪から来ていると知ったら、楽しそうに標準語と鹿児島弁が混じった言葉で戦時中の話を・・・・・・露天風呂で入れ代わり立ち代わり・・・・・・。
何処の家の者かが分かると、家まで押しかけ・・・・・・って、あそこの集落で、祖父母や母親の名前を出すとね~。
田舎あるあるですね。


軽く書きましたが、現代からは考えられない田舎の風習や、戦時中の話・・・・・・親父も戦前生まれで、疎開を経験したらしいけれど、話したがらない理由が分かります。
マクロの話ですが、戦争に参加した人の中では勝者はいない・・・・・・・。

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