厄年とはなんぞや?
そういえばと、厄年の事を思い出しました。
前厄 男性:24・41・60歳
女性:18・32・36・60歳
本厄 男性:25・42・61歳
女性:19・33・37・61歳
後厄 男性:26・43・62歳
女性:20・34・38・62歳
年齢は「数え年」(かぞえどし)で、数え年とは、「生まれた年を1歳」として、「正月が来ると年を取る」数え方。
対になるのが「満年齢」で、こちらは一般的な生まれた年を「0歳」とし、「誕生日が来たら年を取る」数え方。
満年齢から数え年を知る方法は、「誕生日前だと満年齢+2」で、「誕生日後だと満年齢+1」となります。
数え年を用いるのは、最近では神社・寺社に関係する行事の時にしかないのでややこしい。
我が家で数え年の事を考えた最新のことは、私の厄年、その前が七五三。
もう超えたのでいいのですが、男性は満年齢で言うと「42~44歳」の時に二回目の厄年になります。
私自身はこの期間には何も起きませんでした。
自転車趣味(太郎君に引っ張られるように)を始めたことくらい。
趣味といっても、整備の方が楽しいのですが(笑
夫婦そろって、厄年には気を付けていました。
特に、亡兄の病気が厄年にかかっていたから。
亡兄に病気が発覚したのが42歳(前厄)の時、没したのが44歳(後厄)の最後。
私の家系は早死系なので、兄弟揃って気にしていました。
が、医師であった兄でも病気(原発不明癌)にかなわないとは・・・・ということで、厄年期間は体調の変化に物凄く気を使っていました。
でも何もなく・・・・・私は、25~27歳の時の厄年期間の方が問題でした。
3年間で交通事故が14回・・・・・。
約9割がオートバイに乗車中で、結構跳ね飛ばされたりしていて生きている方が不思議という事故が5回ほどあったのですが・・・・・全て骨折未満で済んでいます。
過失割合も、私に起因する事故ではないので2未満の責任でした。
最大、20mも吹き飛ばされているのに・・・・・・肉が擦り剥けて骨が見えていたくらい(笑
1回も救急車に乗らずに自分の足で病院に行っていました。
不思議だ・・・・・医師には怒られましたがね(笑
今では、太ももに55針縫った時の傷跡が膝関節回りに3cmくらいあるのと、両足の甲に変色が見られるくらい。
亡兄が皮膚科専門医だったので、リモート(大阪~福井間)で学会等で発表されていた最新治療を試したり(主治医は別で、了解は取っていた)していました。
今では笑い話ですが、社会人になりたての頃で職場には迷惑をかけるし、クライアントに次に会うときには包帯姿だし(笑
あの当時の環境は物凄くよく、私も必死になって仕事に穴をあけないようにしていました。
神社にお払いに行くという概念がなく、本厄の時に妻(当時彼女)に耳を引っ張られながらお払いに行きましたが、後厄の中ごろまでは本当に事故が続いていました。
後厄の中頃に、宗派の本山に行ったときに、それまで海の中を漂っていたような感覚がなくなり、体の指先まで神経が行き届くような感じになったことを覚えています。
宗派的には結構いい加減な人間(親父の時の住職の影響)なのですが、それからは年に1回は何もなくても本山参りをするようになりました(笑
厨二的なことかもしれませんが、亡兄の診療所兼自宅は嫌な雰囲気だったので、本山に詰めているお坊さんならばなんとかしてくれるかもしれないと考えて、三顧の礼をもじってお願いに上がって・・・・・福井まで行ってもらっています(笑
でも、あの家の中はやばい・・・・・義姉の実家もやばい(爆
あれがこちらに厄をもたらさない様に、亡兄は私に絶縁宣言をした(笑)と一カ月後に仕事上で顔を合わせたときに言っていました。
もちろん、会っていることは義姉は知りません(義姉が原因なので)。
話はそれましたが、厄年は一種の言い訳なのかも・・・・・でも、その年齢付近には何かが起こることが多い。
私の父親の享年は53歳。
厄年ではないけれど・・・・・なので、私たち兄弟は妄信的に下の子供が14歳になった時と53歳付近を信じていました。
厄年の事は盲点で、考えもしませんでした。
私が愚かなのかもしれません。
20代の厄年期間に体がボロボロだった私だったので、それを知っている妻は40代の厄年期間は気が気じゃなかったようです。
確かに、少し調子が悪いと病院に・・・・ということが頻繁になり、面倒だ!と思っていました。
気にしないのは本人のみ?いえいえ、結構気にして毎月、血液検査代わりの献血には行っていました。
おかげで、姫様は献血車(ルーム)をジュースの貰える場所という認識でいます。
1本しかもらえない(言ったらくれるだろうけれど趣旨が違う)のですが、少しも飲ませてくれませんでした。
今は太郎君がついてきて飲んでいます(涙