kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

もういっちょ母親の事

 ついでに書いておく。


最近、年を取ってきたので入院すること、介護の事も視野に入れておかないといけないので、メモ帳変わり。


先日、入院したときに忘れていたこともあったので。


私が中学生くらいからの病・怪我歴。


平成 2年・・・・・・鼻腔癌、労災病院2週間入院、口臭から発覚 
平成 7年・・・・・・喘息、近畿中央病院(ICU)1.5カ月入院
平成14年・・・・・・福井県越前海岸にて滑落(右膝軟骨粉砕後再建)10カ月入院
平成17年・・・・・・自宅の脚立から落下(左脛骨)手術後1か月入院
平成25年・・・・・・胆嚢摘出(胆石が溜まったため)労災病院15日入院
令和 2年・・・・・・自宅で靴下を履いている時に転倒。右上腕骨折


こんなもんだっけ?


病歴がもう少しあったと思ったけれど、癌になって・・・・というか、もともと心臓などに持病があって30歳くらいで閻魔様に会いに行くと言われていたのに・・・・・。


病気を全て書きだすのは・・・・・すごい面倒なので、親父が逝った後の事だけ。


癌の再発が後2回ほどあったはずなのに忘れた(笑


鼻腔癌の発見は、母親曰く、私が母親の息が臭いから目を見て話さなくなって・・・・・病院に行ったら発覚だったそうな。


母親の鼻腔はいまだに空洞で、膿が溜まりやすいらしい。


 越前海岸から滑落したのは・・・・・兄に会いに行ってその帰り、道路沿いの青空駐車場?に車を停めて後ろ方向にまっすぐ歩いて落ちていました。


織田町立病院に入院したのですが、車を回収したときに現場を確認しましたが、なぜ落ちたのかがさっぱりわからない。


その当時、越前海岸では結構あった事故の一つだそうで、崖の所で餓死・凍死・干死など、怪我とは直接関係なく、発見されなくて死に至る事故が多かったそう。


母親が発見された翌日に、3kmほど離れたところで男性の遺体が発見されていた(新聞と警察より)ので母親は生前に発見されたので運が良かったかと。


入院後1カ月で手術して、3か月で大阪の病院に転院、その後7カ月をリハビリ入院。


膝軟骨の再建術は、年齢がまだ若いから、人工関節にする前に一応してみようか(医師談)との事で、まさか、現在まで人工関節への置換しなくていいとは考えていなかった。


2年後、織田町立病院の医師のもとにお礼に伺った際に、すごく驚かれ、学会に発表したらしい(データーは提供)。


この骨折以来、全身の骨折癖が付いたよう・・・・・・まぁ、加齢による骨粗しょう症であるともとれるが。


 喘息に関したら、それまでは喘息と診断されたことがなかったのだが、いきなり喘息発作が出始める。


初期は、発作が出てから吸入ステロイドで対処していましたが、ある時、大学から帰ったときに、母親から吸入しても発作が収まらないから病院に連れていけと・・・・。


かかりつけ医は17時だったので、今の状態だったら後2時間待てと(笑


待てないから、ともかく、目の前にあるトヨカワ総合病院に連れて行ってくれと。


あそこは・・・・・だからいかない方が良い・・・でも連れて行けとうるさいので、通常診療時間ギリギリに駆け込みで内科を受診。


内科の担当医は院長の息子・・・・・この人は八部で有名。


症状を言って胸部レントゲン迄撮ったのに診断は・・・・・・「風邪」。


うん、素人目にも、肺炎迄いってるやん!と思ったので、画像を借り出し以来と診断書の作成依頼をし、受け取った後16時30分になっていたのでかかりつけ医の所に行ったら、サチュレーション80%しかなく、直ぐに近畿中央病院への転院。


近畿中央病院は車で早くて5分、遅くとも10分くらい。


病院に到着すると医師3名と看護師2名がストレッチャーを用意して待機していた。


そのままICUに入り・・・・・いろいろな機械を付けられていた。


この頃の私は喘息に対してそんなにも造詣が深くなく・・・・・というか、思いっきり軽く見ていたので、担当医の女医の方が症状等の説明をしますと言っても、丁度、兄が学会で大阪に来ているのでそちらの方にとまる投げ(笑


翌日は金曜日で大学の授業があったので、兄に丸投げで、兄が帰るときに大阪駅に送ったときに任せておけば大丈夫とのことだったので・・・・・放置。


途中で本当に危なくなったらしくて・・・・・それでも私たち兄弟には連絡が付かず・・・・担当医が頑張ってくれたらしい。


後に、居酒屋で会ったときにどれくらい危険だったのか4時間ほど説教させられた(しかも奢らされた)。


結局、ICUを出られたのは、母親が全快したからではなく、8人部屋の真ん中のベッドだったのだが、窓際の方から1日に1人ずつ亡くなっていき、次は自分の番となった時に発狂するように転室を主張したらしい。


そりゃ~、4人も順番に亡くなったら・・・・・・恐怖だわな。


その後、1カ月くらいしてから退院許可。


この担当医に出会ってから、その場の対処療法ではなくて、如何に発作を起こさせないように(薬で)コントロールするかという(私の中では攻めの)治療法に変化。


以降、発作が徐々になくなり、今では2年に1回ほど(本当に体調が悪くなった時)。


近所のとよかわ総合病院は・・・・・・訴訟の前段階まで行ったよ、診断書は手元にあったし、画像も返還してないから(笑
今はもうないから・・・・・・。



 まぁ、母親はよく三途の川を渡っていないな~という印象。


母方の親戚はみんな100歳以上生きているから・・・・もしかして?

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