kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

我が一族と第2次世界大戦

 今年も無事に?終戦記念日が過ぎました。


私の父方と母方の尊属で、兵役に行った人はいますが戦死した人はいません。


父方
 第2次世界大戦開戦年、祖父母の家で生活していたのは祖父母と3男4女(長女は結婚)。
一番年下で三男の親父は昭和11年生まれ。
明治の中頃から商家をしていて、現在の大阪市浪速元町1丁目に住居と店舗を構え、西成区玉出中に子育て用?の住居を構えていました。


祖父・・・・・・伝え聞いていないからわかりませんが、兵役に入っていな。
長男・次男・・・長男はどこかの軍事学校に行って、昭和20年に兵役・・・出兵せず終戦
       次男は昭和20年に赤紙が来て、召集完了後の出兵している最中に終戦
伯母夫・・・・・2女の伯母は昭和19年に結婚。直後に旦那に赤紙が来て東南アジアに出兵。直後に戦死報告。見合い結婚で新婚生活は1ヵ月。玉出中の家で生活。
親父・・・・・・昭和19年より、和歌山県御坊市に学童疎開。



母方
 第2次世界大戦開戦年、祖父母の家で生活していたのは祖母と2男1女。
母親は昭和21年に誕生。


祖父・・・・・神戸の(現在の)川崎重工でゼロ戦の細部設計(機銃関連)に携わっていた(本人談)。年金記録にて確認済
長男・・・・・戦中7歳(昭和19年)にて病死
長女・・・・・戦中1歳にて病死
次男・・・・・開戦時3歳



 幸い?父方も母方も直系尊属には戦死した人はおらず、唯一の戦死者は伯母(2女)の旦那。
伯母は結婚をせずに、他の兄弟姉妹の子供達の世話をしながら、玉出中の自宅2階で裁縫教室を開いていた。
全盛期は、住み込みの生徒さんもおられたよう。
伯母にとって一番年下の弟の親父を自分の息子のように可愛がっていたため、我が家の中では伯母兼祖母のような存在(一時、養子縁組をしようとしていたらしい)。
戦中、東大阪にも家を購入して生活はそちらでしていたらしい。
大阪大空襲の際には、東大阪から燃えているのがよく見えていて、翌日には煙の中を元町と玉出中の家の確認に行っていたらしい(二女伯母談)。


 母方は、祖父母の縁戚の中には出兵して戦死した人もいたらしいが、縁戚が膨大な量になるのと関係性が不透明なため省略。
地域の集落では最大農家だったため?2km先の特攻隊基地からよく兵士が遊びに来ていたらしい。
出陣の三日前などは、家に来て晩御飯を食べさせていたらしい。
密かに、遺言と遺品を倉に置いていって、宛先不明の物が残されていた・・・・・私が大学生の頃に、9割方返品済み。
ただ・・・祖父母の家は・・・・・毎年この時期になると軍服の人が出た・・(マジ)
軍人が出入りする事は良いことで、暇なときは農作業を手伝ってくれていたから祖母としては助かっていたらしい。
祖父が神戸に勤めていたきっかけは不明。



 戦後、父方と母方とは物凄く生活環境は違っていた。
商家と農家、鹿児島と大阪だと食べ物が特に違っていたよう。
 父方だと、戦後すぐは食べることに事欠くような感じで、しかも年下になれば最後に膳によそわれるから満足に食べることができなかった(父親談)。
父親は戦後の事をあまり話てはおらず、戦後すぐの頃に栄養失調で倒れて学校を留年迄したらしい。
芋の茎・葉のおかゆが主食?で、芋は見たくもないとさんざん言っていたっけ。
ただ、兄弟の中で父親だけが大学に進学した。
現在の大阪公立大学(旧大阪府立大学)の経済学部の1期生だったらしい。


 母方は膨大な土地を持つ農家。
祖父が相続した際に2男と三男にも分けたらしいが・・・・・あれは広すぎだろう。
戦争が終わって祖父が帰郷して農業を本格的に始めた。
山の中を開墾してミカン・キンカン畑を広げて、白いも(焼酎の原料)畑を作った。
米は普通にあったし、野菜も作っていた。
馬・牛・山羊・鶏を飼っていて、自給自足が十分できる環境であったよう。
母親など、昭和20年代後半から東京の短大に進学するまでの鹿児島での出来事はよく話してくれた。
鶏小屋から卵を1つ盗んで?商店に売りに行くと、10円で売れてアイスクリーム2本買えたと笑いながら教えてくれた。
長女だからか、6歳の頃から日本舞踊の教室?に通ったりしていたらしい。
母方は最終的に一男三女だが、全員が東京の大学・短大に進学。
 特攻隊の基地の後は公園になり、その近くに温泉施設ができ、よく通っていた。
露天風呂に入っていると、地元の人たちが声をかけてくれて・・・・・戦中の話などを聞かせてくれた。
大阪から来たのと祖父の名前を出すとわかるらしく、鹿児島弁から標準語にチェンジして三時間でも話し続ける。
鹿児島弁しか話せない人、MIXな人もいたが、鹿児島弁で話しかけられて標準語(ポイ関西弁)で会話する大人と子供という・・・今考えたらおかしいわな。
ここでの話は、実際に行った人から特攻隊の隊員が隠れ住んでいた島を知っていた人など多岐に渡る。
良い話も良くない話も裸の付き合いだからか?よく話してくれていた。
番外編で、母親の女学生時代の恋愛事情なんて聞きたくもなかったわ(笑


 



 私の家系の中では、戦争により人的損害はあまりありませんでした。
父方の店舗用地は、なんばパークスが開業する際に立ち退きにあい消滅(閉店)。
戦後から存在していたものもその際に処分したようです。
 母方の倉からは、軍人さんの手紙などが出てきて、郵便では届けることができなかったものを、平成になってから旅行がてら届けに行きました。
数件、戸籍をたどっても人づてに聞いても不明なものがありました。
殆んどが、広島と長崎の出身の人。
戸籍をたどる(昔はいけた)から、他都道府県に移住していても追跡できましたが、さすがに全滅?されているとどうしようもない。
一部、軍刀などもあったので所有者登録は済ませてあります。
もともと、江戸以前からの武器なども所蔵されていたので、登録は簡単でした。



 人間の喧嘩の国ver.が戦争。
子供の頃は戦争なんてしてはいけないと思っていましたが、大人になるにつれて・・・・大人になると戦争はいけないというよりも「如何に戦争に行かなくて済むか」を考えるようになりました。
考えとしたら邪道ですが、ウクライナの戦争を見ている限り恒久的な中立国というものは存在しないという印象です。

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