kawamiのブログ

息子とサイクリング時々娘と投げ釣り

備忘録~兄①

 先に、兄②を投稿していました。
本来はこちらが先のはずでしたが、後になってしまいました。


 私には2歳違いの兄がいました。
過去形で書いてあるとおり、平成29年12月9日11時30分頃に44歳で亡くなりました。
年をとると共に兄の事を忘れる事もあるので書いておこうと思います。
それに、兄があまり一緒に過ごすことのできなかった息子・娘・・・・私にとっては甥と姪が見てくれたら良いなと思います。



 今回は、兄の出生から小学卒業までを書きます。


 父親は1936年(昭和11年)2月9日生まれ、大阪府大阪市浪速区元町出身で大阪府立大経済学部卒。
母親は1946年(昭和21年)8月8日生まれ、鹿児島県加世田市(現南さつま市)唐仁原出身で聖徳短期大学家政科(もしかして1期生?)卒。


 両親は、共に東京で働いているときに知り合う。
父はFRP、母は広告を扱っていた。
結婚のきっかけは、父が首都高で日産スカイラインGTRを大破させ死線を彷徨った時に看病したから。
1971年(昭和46年)に結婚。
結婚後、父は東京支社から本社に転勤になる。
母親は専業主婦。



 1973年(昭和)11月3日に待望の第1子として大阪労災病院の産婦人科で産声を上げる。
体重2800g・身長不明(母子手帳は母親の元にあるのが見ていない)。
髪の毛は超ストレート、目はぱっちり二重。


2歳の頃より親の期待を一身に浴びながら教育をさせられる。
期待されているだけではなくて、母親がかなりの教育熱心で、幼稚園の年長の頃には小学生の学習は一通りできていた(兄弟とも)。


 今となっては虐待に入るような事をしていました。
例えば・・・・
・猫背になっていると、背中にバットを括りつけて強制的に姿勢を伸ばさせる(そのまま小学校へ)。
・鉛筆の持ち方が違っていたら、正しい持ち方をさせてセロハンテープでぐるぐる巻き。
・お箸の持ち方が・・・・・セロハンテープ・・・・
・親が作った問題を全部解けるまで、食事・おやつ無し。
これ以上は、書くのもあれなので割愛(笑


 さらに、両親が東京で出会ったので?我が家の公用語は関西弁ではなく標準語でした。
これは、両親、特に父親が仕事で東京支社の立ち上げのときに関西弁で苦労したからだそうです。
今では考えられませんが、当時は結構恥をかいたようです。
 蛇足で、鹿児島弁はいまだに理解できません。
テレビで流れている鹿児島弁?あれは鹿児島弁ではない!


 幼稚園入園は年長から。
親いわく、時間とお金がもったいなかったらしい。
歩いて10分ほどのところにある光明幼稚園。
その後、堺市立新金岡東小学校(開校1980年)に入学1期生として入学。


 小学校に入ると同時に「スイミング」と「そろばん」の習い事を始める。
3年生の冬前にスイミングは2級、そろばんは準2級になり共に終了。
人生の中で、兄に勝てたというものは「スイミング」と「そろばん」だけだと思う・・・・後、運動神経(笑


 兄が小学生になるとともに、生活スタイルに変化が起きる。
朝5時に起床し、その後大泉公園(もみじ橋)までランニング(後に内部の池1周が追加)。
6時から算数と国語の問題集。
 それまでは朝7時に起きていたのだが、2時間も早く起きなくてはならなくなる。
勉強の時間は、朝の6時からの1時間、平日・土曜日(半ドンだった)は帰宅後6時30分まで、休日は合計6時間。 


 小学4年生からは「東京標準テスト」という塾に通う。
この塾は、基本は毎日曜にテストがあり、自分が全国でどれくらいの実力かを把握する事ができました。
確か、TOP100くらいだと瓦版のようなものに名前が載っていました。
兄は大体、乗るか乗らないかぐらいの順位だったはず。
後に、特進クラスになり授業にも出るようになる。
最終的に、大阪教育大付属天王寺小学校(不合格、抽選落ち)・星光学院中学校(合格)・東大寺学園中学校(合格)灘中学校(不合格)でした。
 後の兄の言葉で、「灘に入った友人は頭の出来が異次元」とのことです。
私からしたら、別格な兄が異次元と言うとは・・・・。


 


 勉強はね、親のスパルタもありかなりできていました。
が、運動というものが殆んどできない子供となる。 
 私たち兄弟が小児喘息持ち(あの頃は公害が・・・・)だったので、少しでも良い環境にいさせたいという母親の都合で、夏休みの1ヶ月間は鹿児島県の祖父母の家に行っていました。
大阪南港からサンフラワーで鹿児島港まで行ってそこからバス。
ここは大阪では考えられないくらい田舎で、周りにはスーパーが2軒あるだけでもましな方だとは思いますが、市内に出るには山を2つほど越えていかなくてはなりませんでした。
道中は、駅という駅の名前をどちらが早く読むかの競争。
もちろん、年長者である兄の独壇場。


 朝には豆腐屋さんに3丁の豆腐を買いに行き、魚屋さんがリヤカーで魚を売りに来る。
兄の好物は、スーパーで売っている「鶏のたたき」でした。
その当時(35年前)は空き家など無く人が結構いて、迷子になっても母や祖父母の名前を出せばどこから(半径10km)でも帰る事ができたほどの田舎・・・・・。


 祖父母は農家をしていたので、みかん山(私たちはこう呼んでいた)にあるサツマイモ(焼酎用の白いも)畑とみかん・金柑畑、そして田んぼを午後から手伝っていました。
昔の農家的な感じだったので、手間暇はかなりかかっていました。
 今では笑い話なのですが、みかん畑に入ったら兄が2日連続して猪に追いかけられ・・・・・兄弟2人して鍬とスコップで応戦・・・・猪は農家にとっては天敵です。
が、猪はかなり強い!
 田んぼで稲刈りをしていると、また兄がマムシ2匹に追われ・・・・・・私がマムシとは思わずに手で捕獲してお米を入れる袋で保管。
 猪は、シシ鍋料理を出していた親戚の旅館に引き取られ、マムシは漢方薬屋さんに引き取られました。
 兄が小学4年生のころ、農協から子供たちと回る屠殺場とプールツアー?をいただき、屠殺上でブロイラーと豚と牛の屠殺方法を解説されました。
まぁ、鶏は祖父母の家で飼っていたのを食べていたのでグロイとは思わず、豚と牛はその当時はもう電気でしたが、それまでは頭を棒やバットなどで叩いて屠殺していたようです。
この知識が、翌年の猪退治にいかされていくのは・・・・・当然でした。


 鹿児島から帰ると、毎年料理のできない父親が「特製カレー」を作って歓迎してくれました。
父親が作るのは正月の雑煮・お好み焼き・たこ焼きだけ。



 兄の交友関係は、本当に狭いものでした。
私の知っている限りでは、f島さんs本さんだけが趣味も合い・・・・・元々内向的な性格だったので広いものではなく狭いものでした。
家に友達が来たことはありませんし、友達と遊びにいったという事は記憶していません。
ただ、小学校の低学年から、母親に今日あった事を喋るのが日課で私の方が先に帰ってきて兄が後ろで話したそうにしているのは覚えています。


 兄が虐められる。
兄が小6のときに、S本さんから「兄が女子達に虐められている」と話されました。
私が確認したのは、「靴を隠される」「教科書を破られ・焼却炉に捨てられる」「ノートを破られ・焼却炉に捨てられる」「持ち物を捨てられる」本当に腐った事をしてくれる人でした。
 ほめられたことではないのですが、自力解決しました。
小4が小6を虐める(笑
2か月くらいでPTA総会になったそうです。
私は母から首謀者として怒られましたが、なぜか?それ以上はありませんでした。
私はわんぱくだったから(笑
ただ、このいじめは中学になってから再燃していたようです。
吹奏楽部に入らされた時に、ヤンキー(死語?)の先輩から聞きました。
ヤンキー達にとっては、兄は保護対象だったようです。


 脚色する事も無く書いたつもりでいます。

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